● 僕のハートを傷つけないで(後編)  ●

翌日、おそらく自分の表情が真田のごとく険しいであろうことを自覚しながら教室に入ると、ロッカーに向かうといきなり顔を合わせるはめになった。
「あっ、幸村くんおはよう!」
 どうしてやろうかと、まだはっきりとした心積もりのなかった俺は少々戸惑ってしまい、とりあえず不機嫌そうな顔のまま、『ああ』とだけ返す。
それでもお構いなしに彼女は俺に話しかけてくる。
「昨日、陸上部の合同練習見に行くって話してたじゃない。で、友達と行ってきたんだけど、やっぱり城山くんすっごいかっこよくてさー。なんか前見た時よりも背が伸びてがっしりしてて。なんとか一緒に写真撮りたいと思ったんだけど、もう今はめちゃくちゃ人気でね、無理だったよー」
 残念そうに言うけれど、それでもちっとも落ち込んではいない明るい笑顔のを俺はぎろりと睨んだ。彼女はそんな俺の態度を、まったく気にしないようだ。
 本当にこいつ、どうしてくれよう。
 俺がギリギリと彼女を睨んでいると、彼女はそのまま続ける。
「でね、幸村くん、昨日テニス部に顔を出してたでしょう」
 続く彼女の言葉が意外で、俺は一瞬眉間のしわを緩めた。
「ああ、後輩の指導でね」
「『今日は幸村くんがコートにいるよー!』って、またみんな大騒ぎだったよ」
「……も見に来てたの?」
「うん、ちょっと見てたよ。幸村くん、すっごいかっこよかった! 2年の切原くんと打ち合ってたよね」
 俺はぎゅっと結んでいた自分の口元がふんわりほどけるのを感じる。
「新部長は鍛えなきゃいけないからさ。……、よく赤也のことまで知ってるね」
 なんだ、ちゃんと俺を見に来たなら、そう言えばいいのに。
 だったら、俺もおしおきをしたりなんかしない。
 そんなことを考えながらに笑いかけると、彼女も嬉しそうに笑う。
「うん、だって噂のテニス部2年生エースはなかなか可愛くてかっこいいって有名だもん。あと、昨日は仁王くんと柳生くんも来てたでしょう? めっさ豪華メンバーじゃーんって、皆大騒ぎしてたよ。仁王くんも柳生くんもかっこいいもんねー」
 俺の表情が見る見る険しくなるだろうことを自覚した。
 、お前って奴は!
 俺でも陸上部2年でも赤也でも仁王でも柳生でも。
 誰でもいいというのか?
 なんて奴だ!

 の態度は業腹だ。
 俺が機嫌を損ねていることに気づきもしない。
 仁王が言ったように、やはりおしおきが必要だ。
 自分の席について、ピリピリとした気分でいながらも、俺はついいつもの癖でふとの席の方に顔を向けてしまう。すかさず俺の視線を捉えるは、またいつもの笑顔で大きく手を振るのだ。
 俺はむっとしたまま、いつものようには手を振り返さない。が、彼女はさして気にする様子もなく、友人たちとのおしゃべりに戻っていった。
 さて、へのおしおき。
 どうしたものか。
 いつも、他の女の子になら。
 ちょっと意地悪をしたくなった時、それは簡単なことだ。
 俺に好意を寄せてくるような子に涙をこぼさせようと思うなら、ちょいと冷たい態度を取ればいい。俺は普段の人当たりが柔らかなものだから、そういうのはてきめんに効く。俺にそういう態度をされた子は、悲しそうに『何か気に障った? 私、何かした?』なんて言わんばかりの表情になる。
 そうして一転、俺が笑いかけようものなら、天に昇らんばかりの様というわけだ。
 そういった繊細さを併せ持つのがまっとうな女の子というものだと思うのだが、の無神経さときたらどうだろう。まったく腹立たしい。




「ねえ、幸村くん、今日の総会のクラスへの報告の文書って、こんな風でいいかなあ。私、ちゃんとまとめられてるか自信ない」
 委員会総会の後、がちょっと困ったように俺にノートを見せてきた。
 俺は彼女のノートをちらりと見てから、ふいと顔をそむけた。
「いいんじゃないか。俺も忙しいんだ。いちいち毎回チェックしてられないよ」
 冷たく言い放つ。
 はさすがに一瞬驚いたような顔をして俺を見上げるけど、すぐにノートを閉じて笑った。
「そっか、そうだよね。なんかまたテニス部の合同合宿があるんだって? やっぱり立海のテニス部ってすごいな、頑張ってね」
 俺の態度などまったく気にせずに笑いかけるを見て、ふとため息が出た。
 は、別に俺の笑顔と引き換えに自分の笑顔を見せるわけじゃないんだ。
 見返りなし。
「……もちろん、合宿の選抜では誰にも負けないつもりだよ」
「おー、さすが幸村くん! そういうとこ、かっこいいね!」
 まったくは。
 俺は、を泣かせてやろうと思ってるんだよ。
 複雑な気分でいると、背後から聞きなれた声が。
「やあ、幸村くんにさん。今日の総会は長引きましたね」
「あっ、柳生くん!」
 の視線は柳生の手元のノートに注がれた。
「柳生くんって書記してたよね。私、自分の議事録ノート、ちゃんと書けてるか自信ないから、ちょっと見せてもらえない?」
 懇願するように言う彼女に、柳生は優しげに微笑みかけた。
「ああ、勿論かまいませんよ。クラスへの報告は正確でなければなりませんからね。さんは意外にまじめなのですね」
「意外とはどういうことよ〜」
 は笑いながら、柳生のノートを広げた。
「わー、柳生くんってすごい字がきれい。イメージ通りのノートだなあ」
 感心したようにノートを繰って、ところどころ自分のそれに転記していった。
 必要事項を転記し終わると、ノートを閉じて柳生を見上げた。
「柳生くん、どうもありがとう、助かったよ。さすが学級委員常連だよね、優しいし頼りになるー。幸村くん、私、議事録ノートを職員室に持ってっとくから、じゃあね!」
 長い総会が終わった開放感もあってか、は満面の笑みでノートを抱えて廊下に飛び出して行った。
「……幸村くん、どうされました?」
 彼女の後姿を眺める俺に、柳生が少々当惑した声をかけてきた。
「何がだい?」
「いえ、ひどく怖い顔をされていますから……」
「……ああいう女なんだよ、は」
「は?」
 柳生はわけがわからないという顔をする。
「誰彼かまわずいい顔をして、ふしだらで性悪な女だ」
 俺の言葉に、柳生は更に当惑した様子。
「え? あ、ノートの取り方などは少々要領悪いようにお見受けしますが、それなりに職務に熱心な明るい普通の女子だと……」
 俺が睨みつけると、柳生はそれ以上は口にせずそそくさとノートを手に、会議をやった教室を後にした。


*************


 まったく、皆わかっちゃいない。

 教室で、仲間たちと楽しげに騒いでるを見ながら俺の胸はあいかわらずむしゃくしゃしたまま。
 今までのことをそんなにちゃんとは見ていなかったけれど、こうして改めて観察すると、たちは結構男子のグループと話している。
 楽しそうだ。
 勿論、俺もクラスに仲のいい奴はいるし、女子とも話すけれど、ああいった皆でわいわいといった雰囲気とはあまり縁がなかった。
 は、別に俺とじゃなくても、他のどんな男とでも楽しそうに話すじゃないか。
 別に俺と話せるようになったからって、特別に楽しいわけじゃなかったんだ、きっと。
 それをまるで、俺を特別の相手のような言い回しで接したりして。
 っていうのは、まったくひどい奴だ。
 今の俺は、が視界に入るたび、ついと顔をそらす。
 彼女にはおしおきが必要だけど、どれだけ冷たくしても彼女はまったく堪えない。

「幸村くん、これ、日誌」

 ふと気づくと、が俺の席の前に立っていた。
「ああ?」
 俺は不機嫌な顔のまま顔を上げる。
「委員の仕事じゃなくてさ、日直の日誌。幸村くん、今日日直じゃん」
「……ああ、そうか。どうも」
 俺はそれだけを言って日誌を受け取った。
「……ねえ、幸村くん」
 は声のトーンを低くして、少し頭を下げた。
「幸村くん、最近テニス忙しいの? それとも、体調悪い?」
「うん? どうして?」
 彼女の問いが少々意外で、俺はつい顔を上げた。
「なんか、キビシイ顔してることが多いから。どうしたのかなーって」
 さすがのも気づいたか。が、それが自分の所業のせいだとは思っていないらしい。
「……別に、そういうわけじゃない」
 俺が返すと、まだは少し心配そうな顔のまま。
「そう、ならいいんだけどさ。幸村くんは笑ってる方がいいし、ちょっと心配だったんだ。ごめんね、変なこと言って。気にしないで」
 そう言うと、今度は笑って手を振った。
 自分の席に戻る彼女を見ながら、俺はため息。
 そうじゃないんだよ、
 俺が女の子にキビシイ顔をしたり冷たくした場合。
 女の子が気にするべきなのは、俺の体調とかそんなのじゃなくて、『私、嫌われちゃったのかしら』とか、そういうことなんだよ。
 俺がにさせたい気持ちってのは、別に俺の心配をするとかじゃなくて、もっと、俺を思って胸を焦がすとか……そういうことなんだ。
 まったく、俺が不機嫌そうに冷たくするからって、どうしてこの期に及んで俺の体の心配だなんて。
 ……くそ、キュンとくるじゃないか。
 こめかみのあたりに手をあてていると、が隣の席の男と『少年ジャンプ』を取り合って騒いでいる姿が目に入った。
「ちょっと、返してよ! 私が先に松村から借りたんだってば!」
 彼女はそんなことを叫びながら、怒った顔をしてジャンプを奪い返していたけど、そんなのただの楽しげなじゃれあいにしか見えない。
 まったく、腹の立つ女だよ、は!


 2限目の休み時間、何気なく廊下の方に顔を向けていたら(のいる窓際の方を見たくなかったものだから)、ひょっこりと丸井ブン太が顔を出すのが見えた。
 珍しい。何か俺に用事だろうか、と席から立とうとすると、きょろきょろ教室を見回していたブン太は、まったく俺と違う方向を見て笑って手を振った。

「おーい、!」

 ロッカーの方にいたが振り返る。
 ? のことを、丸井がそう呼んだのか?
「あ、ブン太、どうしたの?」
 は振り返ってから、廊下に向かった。彼女の態度は、いつもの男友達へのそれと変わらないけれど、丸井を『ブン太』と呼んだことを俺は聞き逃さなかった。
「あのさ、古語辞典持ってねぇ? 次の授業で要るんだけど、忘れてきちまってさ。ジャッカルに借りに行こうと思ったら、あいつのクラス次が体育で教室にいやがらねーのよ」
「古語辞典? ああ、あるよ、いつも置きっぱなし」
 はロッカーに戻って、辞典を手にしてまた廊下のブン太のもとに向かった。
 俺はさりげなく二人の傍に近寄る。
「やあ、丸井、忘れ物かい?」
 わかっていながら、俺はなんでもないように声をかけた。
「おっ、幸村くん。へへ、古語辞典とかすぐ忘れちまうんだよなー。幸村くんに借りようと思って来たんだけど、がいたからまあいっかと思ってさ。A組の柳生に借りようかとも思ったけど、真田に見つかったら説教くらいそうでウゼーだろぃ?」
 いたずらっぽく笑う丸井に、もつられたようにおかしそうに笑った。
「なんだ、丸井とは親しかったの?」
 俺はさりげなく、尋ねたい本題を切り出した。
 丸井の古語辞典などどうでもいいのだ。
「へ? いや、別に親しいって程じゃねーけど、1年の時に同じクラスだったからさ。あ、そろそろ授業始まるし、古典の杉浦ウルセーから俺もう行くわ。じゃあな」
 嵐のように丸井が去った後、俺はちらりとを見た。
「なんだかんだ言っても、名前で呼び合って、かなり仲はよさそうだな、丸井とは」
 俺が言うと、は不思議そうな顔をする。
「まあ、仲は悪くはないけど。ブン太のことは同じクラスになった子は大概『ブン太』って呼ぶし、ブン太はちょっとしゃべったことのある相手を簡単に名前呼びするんだよ。そういうとこ、ちょっと可愛いし親しみやすいから、やっぱりブン太は人気あってモテるよねー」
 そう言って、いつものように笑った。
 俺は何かを言ってやろうとしたけれど、ちょうど始業の鐘が鳴って、俺の中の言葉を探し切ることはできなかった。


 昼休みには、ジャッカルと連れ立って食堂に行った帰りと思しき丸井が教室に寄って、に古語辞典を返していた。丸井はお礼の品らしきムースポッキーなんかを手渡し、楽しげに話している。『』と、丸井が彼女を呼ぶ声が耳に入るたび、俺はイライラする。『最近機嫌わりぃな』と、隣の席の友人が声をかけてくるが、俺は知らん顔だ。

 昼休みの後の授業は社会科で、これまたついてなかった。
 一緒に日直の担当になっていた生徒が体調不良で早退をしていて、授業で使う資料をあわてて資料室に取りにいくはめになる。
「幸村くん!」
 廊下に出た俺を、が追いかけてきた。
「今日、ハルカ体調悪くてさ。ごめんね」
 早退した日直は、の友人の一人なのだ。
「日直一人じゃ大変だから、学級委員のよしみで手伝ってやれって先生が」
 は笑った。
 俺は肩をすくめて見せる。
 授業中の廊下を抜けて資料室に向かい、俺とは指定されたDVDと便覧を取り出す。本当はもう一人の日直が休み時間に運んでおくように指示されていたらしいのだが、俺に伝える間もなく帰ってしまったので、こうして授業時間中に用意するはめになった。
「なんか、授業中の廊下って誰もいなくて静かで緊張する」
 廊下を歩きながら、は小さな声でつぶやいた。
 彼女が言うように、授業中の学校の廊下というのは、少し不思議だ。
 人がたくさんいるのに、いない。
 大勢の人間の誰もが息をひそめている。
 決して二人きりじゃないけれど、だけど現実的には二人きりだ。
「……は、仲のいい奴、多いよね」
 俺の唐突な問いに、彼女はびっくりした顔をする。
「え? まあ、普通くらいだと思うけど」
「よく、男子ともしゃべってるじゃない。つきあってる奴とかいるのかい?」
 それはないだろうな、と思いながら白々しく聞いて見る。
「はあ? いるわけないじゃん。彼がいるような子って、もっと女の子っぽいっていうか、私たちみたいのとは違うグループの子だよ」
 はまったく他人事のように言った。
 まあ、確かにそうだ。いかにも彼がいるようなタイプの女の子たちと、たちみたいな駅ビルタイプの子との違いというのは、ぱっと見、歴然としているんだよね。
 けれど、俺は話を続けた。
「例えば、この前言ってた他校の陸上部の2年。ああいう奴と、つきあいたいとか思わないの? は」
 俺が言うと、は声を抑えて笑った。
「そんなの、あるわけないじゃん! 私みたいなのが城山くんに相手にされるわけないでしょ! つきあうとかってまずありえないってー! 考えたこともないよ」
 まあ実際のところ、はそうモテそうにないし、そんなところだろうと俺も思っていた。
 けど、今日、『ブン太』『』と呼び合っていたあの感じ。
 もしもに彼がいたら、あんな風に楽しげに過ごすんだろうと、妙にリアリティがあった。
 そして、もしかするとを好きな奴っていうのが、結構いるのかもしれないなと、ふと思った。
 いや、いたって別にいいじゃないか。
 だけど。
「……でも、もしその城山って奴が、を好きだって、つきあってほしいって言ったらどうする? 他にも、ほら、が『かっこいい』って言ってた、仁王や柳生や、赤也なんかがさ、そう言ったら」
 俺の問いに、はおかしそうに笑うばかり。
「えええ〜? なに、その質問? 『もしも』の質問にしたって、ありえなさすぎて、考えられないよ。だって、『嵐のメンバーに告られたらどうする?』みたいな質問と同じようなもんだよ、幸村くん」
 はそう言って、我慢できないというように前かがみになって笑いをこらえる。授業中の廊下じゃなかったら、大笑いするんだろうな、きっと。
 でも、俺は一緒に笑うことはできなかった。
「ふうん。じゃあ、もし俺がを好きだって言ったら?」
 俺が静かに言うと、は前かがみになっていた体を起こした。
 目を丸くする彼女を相手に、俺は壁に向かって詰め寄った。
 いは驚いた顔のまま後ずさる。
 俺がそのままどんどんに近づくものだから、彼女はどんどん後ずさって廊下の壁にぴったりと背中がくっついた。
 背中を壁に張り付かせたの顔の横に、バン、と手のひらを張り付かせる。
 まるで、彼女に逃げ場はないということを示すように。
 俺と彼女の物理的な距離は、いまだかつてないくらいに近い。
 ありがちなドラマのワンシーンみたいだ。
 自分の顔のすぐ下にある彼女の目を、俺はじっと見た。
 こんなを見るのは初めてだった。
 目を見開いて、驚いたようにその唇を少し開いて。
 眉根が少し寄っているところに、警戒心を感じた。
 彼女の唇は少し震えていて、何かを言おうとしているようだけれど、言葉がみつからないみたい。
 いつも俺に笑いかけてばかりの彼女の、そんな顔を見ていると俺は胸の奥でぞくりと何かが響く気がした。
 俺は、の耳元で小さく息を吐く。

「……ばーか。冗談に決まってるだろ」
 
 俺の声は、の脳の中に甘く響いているだろう。そして彼女が見上げる俺の笑顔も、発した言葉の内容に反して甘く穏やかなはず。
 俺がサービスエースを確信して彼女の顔を見ていると、彼女の眉根はふんわりと溶けて、現れるのはいつもの笑顔。
「だよね〜。びっくりしたじゃん。何のどっきりかと思っちゃったよ」
 はくくくと笑って、なんでもないように俺の胸をポンと叩くのだ。『早く持っていかないと、先生うるさいよ』なんて言いながら、静かに廊下を歩き出す。
 さっさと歩き出した彼女を眺めながら、俺は手にしているDVDを握り締めた。

 違うだろう、
 
 こういった場合、は混乱して困った表情をして、そのまま俺を置いて一人で逃げるように廊下を走って教室に向かうんだよ。
 そうして、教室では俺を避けるように、見ないようにするんだ。
 うっかり目が合おうものなら、あわてて顔をそらすようになるんだよ。
 そういうものだろう、普通!

「幸村くん、DVD上手く映らないんだけど! これ、何か切り替えないといけないの? ねえ、ちょっと見てくれない? 」
 
 なのにこいつときたら、二人一緒に戻った教室で、まったく何事もなかったかの様子。まあ、別に何事かあったわけじゃないけど。
 それにしても、まったくこいつはダメだ。
 駅ビルタイプの、恋に縁のない女っていうのは、てんで始末が悪い。
 
 放課後、なんとなくそのまま帰る気がしなくて、ジャージに着替えてテニスコートに向かった。
 へのおしおきは、さっぱりはかどらない。
 それどころか、俺自身、不機嫌で不愉快な時を重ねるばかり。
 まったく最悪な女だよ。
 歩いている俺の耳に、風切音が響いてきた。
 その音を聞くと、どんな時でも俺の全身・五感は冴え渡る。
 どこからともなく飛んできた黄色いテニスボールを、俺はラケットで受け、それを打ち返すことはせずふわりとスピードを殺しラケットの上に載せた。

「お見事じゃのう、幸村」

 現れたのは飄々としたあの男。
「どうしたんだい、コントロールをミスるなんて、らしくないね」
「悪ぃ悪ぃ。ちょいと気まぐれで、赤也のナックルサーブを練習してみたんじゃ。簡単じゃろ思うたんじゃが、意外と跳ねるもんでの」
 俺がラケットに載せたボールをついと差し出すと、仁王はボールの握りをあれこれ試行錯誤してみせる。
「ま、変化球もたまにはええもんじゃが……」
 仁王はぎゅっとボールを握ったまま、ふふと笑う。
「やっぱり、男はストレートじゃろ。柳生のレーザービームのごとくな」
 そう言うとボールを握ったままの手を、一瞬ぐいと俺の胸に押し当て、そしてボールを弄びながらコートに向かった。
 意味深なことを言ったつもりなのだろうけど、俺はその手にはのらないよ。

 コートに向かっていた俺はきびすを返し、海志館と1号館の渡り廊下に上がった。
 気に入りの場所なのだ。
 風が通って、中庭の花壇が見渡せるから。
 初秋というのは、春や夏の始まりの頃ほどに自己主張の強い匂いはない。
 けれど、植物の種子は少しずつ確実にその実を太らせている。
 春に芽吹いて、夏には力をたくわえ、そして秋にはそれを熟させる。
 そんな季節を、俺は好きだ。
 せっかくのいい季節に、俺は馬鹿みたいにイライラして過ごしている。
 それもこれも、のせいなわけだけど。
 ふわりと吹き込んでくる風を、思い切り胸に吸い込んだ。

 

 心の中で、そう呼んでみた。
 実際に俺がをそう呼んだとしたって、別に丸井がそうしていたように、は気にもせず笑顔で返事をするだろう。
 そうじゃないんだ。
 俺が、にしたいおしおきっていうのは。
 こう……が、俺を好きで。
 それは、いつもが俺も含めたいろんな奴にしょっちゅう言ってる『好き』じゃなくて、もっと……簡単に口には出せないような『好き』で、あいつが俺を見るたびに苦しくなるような。
 そんな目にあわせてやりたいんだよ。
 に。
 そんなことを考えていたら、部室棟から出てきたらしいの姿が目に入った。
 大きな紙袋を手にして校庭を歩いている。
 ああ、部室の荷物を片付けるとか言っていたっけ、今日。
 えっちらおっちら歩いている彼女を、俺は渡り廊下から見下ろしていた。
 ふと思い立って、手にしていたラケットをくるりとまわし、グリップを彼女の方に向けた。ラケットヘッドを右肩に乗せる。
 ちょうど、ライフルでも構えるようにね。
 こいつで、の胸を撃ち抜く。
 そうしたらは、俺に夢中になる。
 俺の声・表情のひとつひとつに一喜一憂して、夜も眠れなくなるくらいに。
 そうなれば、俺も溜飲が下がるんだ、きっと。
 そんなことを思いながら、子供の頃にふざけて遊んだみたいに、口元で小さく『バーン!』なんてつぶやいて、ラケットのグリップを軽く持ち上げた。まるで発砲の衝撃を逃がすみたいな振りを。
 その時だ。
 突然顔を上げたと、俺はばっちり目が合った。
 彼女は確かに俺を見た。
 そして次の瞬間、ぐっと胸を押さえ前かがみになったかと思うと、そのまま後ろに倒れこんだ。地面に落ちた紙袋からは、ジャージやファイルが散らばる。
 
 ありえないと、わかっているのに。
 俺が構えたのはただのラケットだ。
 弾丸も、魔法の矢も出やしない。
 彼女に、何も届いたりはしないとわかっているのに、俺はそんな彼女の様子を見た瞬間渡り廊下の塀を飛び越えた。
 すぐ下に自転車置き場があることを知っていたから、自転車置き場のスレートの屋根に一度降りてから校庭に着地する。

!」

 あわてて駆け寄った俺を迎えるのは、大きく口を開けてびっくりした顔の

「どうしたの、幸村くん! あんなとこから飛び降りてきて、大丈夫なの!?」
「どうしたの、じゃないだろう。が倒れたから、びっくりしたんじゃないか!」
 尻もちをついた格好になっているを、俺はあわてて抱き起こそうとする。
「ええ? だって、幸村くん、あそこから『バーン』て撃つ振りしてたでしょ? 普通、ああいうことされたら、『やられたー』ってリアクションするじゃない。お約束でしょ」
 彼女はきょとんとして俺を見るのだ。
 俺は大きくため息をついて、その場にしゃがみこんだ。
「……、どうしてこういうのばっかりリアクションいいんだ」
「そんなこと言われても……ごめん、びっくりさせた? そんなにびっくりすると思わなかったんだよ」
「いや、別にいいんだけど」
 じっと俺を見ていたが、ふと視線をそらした。
「っていうか、私の方がびっくりしたよ。……幸村くん、まるで鳥か……豹みたいに突然目の前に飛び降りてきたから。まだドキドキしてる」
 俺は彼女の手首に触れた。はおどろいた顔をするけれど、腕は引っ込めなかった。
 の手首の内側の親指側にそっと触れると、確かに脈が速かった。
 の、心臓のリズム。
 俺より速い。

「……今の俺、かっこよかったかい?」

 いつもだったら即答だろうに、少し間があく。
 顔を覗き込むと、彼女は少し戸惑った顔。
「うん、かっこよかった」
 の手首から伝わる心臓のリズムに、俺のそれも近づいてきている気がした。

「俺を、好き?」

 は眉間をきゅっと寄せる。
「今、言うの?」
「いつも言ってるじゃないか。幸村くん、好きって」
「……あ、ええと、そういう好き、のこと?」
 俺はの手首をぐっと握り締めた。彼女の脈拍がどくどくと俺の指に伝わる。
「いや、そうじゃないな。、頼むからさ……」
 ため息をついて、苦笑いをした。
「好き、だとか、かっこいい、だとかは俺にだけ言うようにしてくれないか。優しくするのも、俺だけに」
「……それも冗談?」
 用心深げな彼女の表情を見て、今日の昼間の廊下での出来事を思い返した。俺のナックルサーブ。
 俺は彼女の手をつかんだまま、立ち上がらせる。
「本当はね、俺は冗談なんて言わない男なんだ。さっきの弾丸も、実弾だよ」
 俺はふふ、と笑って人差し指をピストルみたいに立てての左胸を指す。
 彼女は両手で胸を押さえた。
「幸村くん、ひどいなあ。だから私、なんだか胸がぎゅってなるんだ」
 そう言いながら、はようやく笑った。
「俺はひどい男だよ。だから逆らわない方がいい。さっきの命令にもね」
「逆らったら、また撃つ?」
「当然」
 そう言うと、彼女は今度は少し照れたように笑った。
 これで俺は常に彼女に銃口を向け、照準を合わせていなければならないわけか。
 地面に散らばったの荷物を持ち、片手を彼女に差し出した。
 彼女は少しためらってから、そっと俺のそれを握り返す。
 俺は常に彼女をつけ狙う殺し屋なのか、お付きの騎士なのか、ちょっとよくわからないけど、ともかくこのの心拍数を上げてやっただけでも、おしおきは成功ということにする。

(了)
「僕のハートを傷つけないで」
10.12.2009

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